法人創設者の紹介corporate
創設者 近藤正秋について
創設者のひとりである近藤正秋は、満州国ハルビンでの闘いの最中に光を失いました。その後、内地送還し盲学校入学、失明軍人教育所を経て盲学校教諭となりました。その後、退職し疎開し昭和20年に焼け残った自家を治療院として開業。近藤正秋が尊敬する盲学校での先輩教諭の片岡好亀の依頼から鍼灸共同治療所と愛知県盲人福祉協会を立ち上げようとしました。そして、その二人の呼びかけに愛知県下の盲人の多くが協力し、名古屋ライトハウスの前身である愛知県盲人福祉協会を立ち上げることとなりました。
近藤正秋の著書である『試練を越えて』には戦後まもない厳しい時期に迎え入れた盲学校の教え子のエピソードがあります。そこには破局的な混乱の時期とはいえ、盲人のおかれている状態と援護救済していくための施設の在り方を深く考えさせるものであります。
「ひとりの幸せのために」 この想いで職業を開拓し、住まいを整備し生きる喜びを探してきました。
近藤正秋 年表
大正2年12月14日 | 愛知県御器所村に生まれる |
---|---|
昭和9年1月20日 | 騎兵第三聯隊に入隊 |
昭和9年4月22日 | 満州国ハルビンに渡り同方面の警備に就く |
昭和10年5月25日 | 戦闘において両目を失う |
昭和10年7月末日 | 内地送還 |
昭和10年10月28日 | 名古屋陸軍病院退院 陸軍伍長となり兵役免除となる |
昭和10年11月4日 | 愛知県盲学校入学 |
昭和13年11月7日 | 失明軍人教育所師範部入所 同時に官立東京盲学校中等部鍼按科を研修する |
昭和15年3月31日 | 官立東京盲学校卒業 |
昭和15年10月31日 | 失明軍人教育所師範部卒業 |
昭和15年11月12日 | 愛知県立盲学校教諭となる |
昭和20年4月30日 | 同校退職 愛知郡東郷村春木町へ疎開する |
昭和20年11月 | 名古屋市昭和区塩付通りに戻り鍼按治療院を開業する |
昭和21年10月17日 | 愛知県盲人福祉協会を創立し理事になる |
昭和23年7月24日 | 社団法人に改組し、理事長となる |
昭和27年5月 | 社会福祉法人に改組し、理事長となる |
昭和31年10月3日 | 身体障害者援護功労者として名古屋市長より表彰される |
昭和32年8月 | 名古屋ライトハウスと改称する |
昭和35年4月22日 | 身体障害者援護功労者として厚生大臣より表彰される |
昭和40年8月15日 | 戦傷病者援護功労者として愛知県知事より表彰される |
昭和48年11月20日 | 藍綬褒章を受章する |
昭和49年2月 | 著書『試練を越えて』を出版 |
平成7年5月8日 | 勲五等瑞宝章を受章する |
平成9年2月20日 | 名古屋市内にて逝去 |
創設者 片岡好亀について
函館師範学校に在学中に視力を失うも、肢体不自由のある幼なじみからの「障害を乗り越えろ」との励ましにより単身上京し東京盲学校に入学。鳥居篤治郎氏から「優れた教育者、盲人のレベル向上のための教育ができる教師こそが今の盲界に必要であり、君は迷わず師範部に進むべき」と激励され、教師の道へと進まれました。
堪能であった英語力を活かし、戦後の進駐軍に対して鍼灸禁止令撤回運動の先頭に立ち、「他に生きる道のない盲人から鍼灸を取り上げることは死を意味する」と訴えて撤回に導いたり、消失した名古屋盲学校の再建に向けて直接軍政部と交渉を重ね、兵器廠跡の敷地を与えられ校舎完成に尽力したりされました。
「個性に応じた教育、能力に応じた職業」「個人の知力と能力を活かすバランスの取れた教育と福祉の連携」この考え方を信念に、名古屋盲学校と名古屋ライトハウスの両輪を回し、永らく名古屋の盲界をリードされてこられました。
片岡好亀 年表
明治36年10月24日 | 北海道北見の国下湧別村で生まれる |
---|---|
大正8年4月 | 函館師範学校に入学 |
大正10年5月 | 緑内障のため失明、同校を退学 |
大正12年4月 | 東京盲学校中等部鍼按科に入学 |
昭和5年3月 | 同校師範部を卒業 |
昭和11年2月 | 名古屋盲学校鍼按科の主任教諭に赴任する |
昭和20年7月 | 戦災のため学校も自宅も焼失 |
昭和21年10月17日 | 愛知県盲人福祉協会を創立 |
昭和22年9月 | 進駐軍による鍼灸禁止令撤回運動の先頭に立つ |
昭和32年8月 | 名古屋ライトハウスに改称し、副理事長となる |
昭和39年3月 | 名古屋盲学校を退職し、名古屋ライトハウス理事長に就任する |
昭和51年4月29日 | 勲五等旭日双光章を受章する |
昭和52年3月 | 理事長を退任、会長となる |
平成8年1月28日 | 逝去される |